船堀の塾:わかりやすい日本史①

こんにちは!

皆さんは歴史は好きですか??

歴史は興味の世界ですので、より詳しくなるには興味のあることを調べてみることが大切です!

私は、お父さんが歴史が好きだった影響で

小学生の頃

●大河ドラマ

●歴史の本

●そのとき歴史が動いた

などのテレビや本をよく見ていたものです。

皆さんに少しでも歴史に興味をもってもらうため、人物や出来事に絞ってお話ししたいと思います!

知名度No.1 織田信長ってどんな人?

織田信長といえば、

尾張(愛知県)出身の戦国武将。父は織田信秀。

 

青年期は、『うつけもの』つまり中身が空っぽ、躾がなっていない人と悪評を言われた信長。

父親が死んだときに、抹香をつかみ仏前に投げつける様は、とても有名な逸話。

周りからも立派な当主として思われていなかった信長です。

弟の信行を暗殺するなど、兄弟の中でも争いがありました。

これについては、

当時の感覚からすれば、不思議なことではなく

『自分がやられる前にやる』

これは当時の武将の考えでは当たり前のことでした。

今では、気に入らないから殺すなど御法度。

昔は、命を狙われることも多かったことから、不穏な動きがあれば、難癖をつけて暗殺することなど日常茶飯事のことでした。

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まずは、織田信長の年表を簡単にご紹介

1534年 尾張で誕生

1551年 父の死去、家督を継ぐ

1560年 桶狭間の戦い

1567年 美濃攻略

1568年 足利義昭を利用して、入京

1570年 金ヶ崎の退き口(人生最大の危機)、姉川の戦い

1573年 室町幕府滅亡、浅井朝倉を倒す

1575年 長篠の戦い

1576年 安土城建立

1580年 石山本願寺を黙らせる

1582年 武田家を滅亡させる、本能寺の変にて死去

信長はどうしてこんなに有名なの?

織田信長と言えば、わたしは

●常識破り

●情報を大切にした

●運が強かった

●今までにない人事権

という点が当てはまると思います。

 

織田家というのは、元々そんなに敷居の高い戦国武将ではありませんでした。

当時、尾張には斯波家という有力守護大名がいました。

織田家は、守護代。

守護大名ですらなかったんですね。

簡単に言えば、『大名ではなかった』ということです。

当時は、下剋上の世の中でしたから、

織田家は斯波家との立場をひっくり返し、

織田家は尾張において力をつけていきます。

そんな中、織田家の正式な当主となった信長。

尾張=愛知県とはいえ、愛知県の一部分ですから(約3分の1ほど)、まだまだその時点では有力な大名ではありませんでした。

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周りは、強敵ばかり

美濃(岐阜)には、斎藤道三

駿河(東海地方)には、今川義元

甲斐(長野)には、武田信玄

越前(福井)には、朝倉義景

越後(新潟)には、上杉謙信

周りは強敵だらけ。

これら格上を一人一人倒していかないと、信長の天下統一はありません。

スタートだけを見ると、誰も織田信長という男など眼中にありませんでした。

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桶狭間の戦い(常識破り&情報戦)

1560年、織田信長と今川義元の間で戦争になります。

今川家は、当時は有力な大名。

兵力の差は、

織田家3000  VS今川30000

約10倍の兵力の差がありました。

こんな兵力に差がある戦争では、

大体兵力の少ない方は、『籠城』という城に立てこもり戦う手法がとられました。

これは長期戦に持ち込み、援軍を待つなど粘り勝つ手法

これでは、

もし援軍がこない、食料が尽きた場合、餓死ということになります。

信長はそんな中、討って出ます。

有名な逸話としては、

戦いの前の夜に、農民を使い、今川の軍隊にお酒などを送り、朝方まだ寝ている隙を襲う戦法でした。

また信長は情報戦を用います。

当時は、今よりも情報がとても重要になります。正しい敵の位置を把握して、今川義元の本陣を横から突く

これが信長の戦法でした。

絶対数は10倍違えど、

本陣を横からつけば、兵力の差は無くなる。そして、奇襲をかければ相手は動揺し、正常な判断を下せなくなる。

用意周到な信長の戦法でした。

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桶狭間の戦いで、一番ご褒美を受けるのは誰?

当時は、相手の大将の首をとるのが一番手柄とされていました。

信長はそんな中、今川義元の情報を伝えてくれた家臣に一番手柄を与えました。

信長にとって、

一番大切としたのは『情報』ということだったのかもしれませんね!

今までの大名の価値観からは、少し外れた感じの大名だったのかもしれませんね!

織田信長には運も味方していた?!!

織田信長にとって、

尾張という国はとても良い地理だったのかもしれませんね。

なぜなら、

京都が近い:足利義昭将軍を利用して京都に上洛することに成功

将軍に近づけたことによって、織田信長の権威は増したことでしょう。

しかしながら、将軍家とはいざこざは尽きなかったようですが。

また、

甲斐の武田信玄が信長に迫ったことがありました。

その時も、

武田信玄の急死(病死)

ということもあり、事なきを得ています。

緊急事態を脱することができた信長の天下取りは急速に加速していくことになります。

革新的な戦術、人事権

当時の織田信長の家臣は有力者ぞろいでした。

●柴田勝家:北陸地方担当

●滝川一益:関東地方担当

●丹羽長秀:四国地方担当

●羽柴秀吉:中国地方担当

●明智光秀

という感じで、それぞれの地域へ同時に派遣をして攻めるという戦法を取りました。

自分自身の近くには、あまり兵力を置いていませんでした。

このことは、一度家臣の誰かが裏切れば、自分自身の身も危ないことも意味していました。

それだけに、全幅の信頼を寄せた家臣を手元においたのだと思います。

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鉄砲を使った革新的な戦術

1575年 長篠の戦い が起こります。

織田・徳川連合軍 VS 武田勝頼

という構図。

当時、武田の騎馬隊は日本一でした。とても恐れられていました。

真っ向から戦えば、多くの死者を出す。

そこで信長がとった戦術は、『鉄砲を主体とした戦い』でした。

クリックすると新しいウィンドウで開きます鉄砲

利点

●殺傷能力が高い

欠点

●準備するまでに時間がかかり、1対1の戦いには不向き

という欠点がありました。

そのため、戦ではこれまで鉄砲を主体とした戦術はとられていませんでした。

 

 

そこで、馬に乗って一直線に迫りくる敵に、数千挺の鉄砲で一斉砲火をして、

銃弾を浴びせるという戦術を取ります。

順風満帆と思われたその矢先

多くの家臣たちを地方に派遣していた信長

明智光秀のみを近くい置いていました。

中国攻め総仕上げとして、出陣をした信長は京都の本能寺に立ち寄りました。手勢は数百。

そんな状況下、事が起こります。

『敵は本能寺にあり!』

1582年6月2日 本能寺の変です。

織田信長200~300 VS 明智光秀13000

です。。。

流石にこの手勢では、いかに信長と言えど万事休す

信長も

『是非に及ばず』…どうすることも出来ない様

と発したのも無理はないと思います。

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これはとても有名な辞世の句

人間五十年

下天の内をくらぶれば

夢幻のごとくなり

一度生を受け

滅せぬ者の有るべきか

 

意味

人間の一生は所詮50年にすきない。天上世界の時間の流れに比べたらはかない夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものだ

ということです。

当時の人間の平均寿命は、今よりも短かった。

信長は、夢半ばにして散り、天下布武の夢が絶たれてしまいます。

本能寺の変は謎だらけ

本能寺の変は、明智光秀単独説が有力ですが、

他にも

●秀吉黒幕説

●家康策謀説

●公家共犯説

など様々な説が飛び交っています。

これらの説は、突っ込みどころが満載で正しくないという見解が出ているようです。

私個人としては、

●秀吉黒幕説

は有りだなと思っています笑

なぜなら、

農民の子どもだった秀吉が、城持ち大名となりさらに信長死後、織田家の実権を握り関白の位まで上り詰めたという事実

こんなにうまくいくものかな?と勘ぐってしまいます。

どうも話ができすぎているなと思ってしまうほど。

秀吉が関白になれば、全国の書物を秀吉に都合が良いように書き換えるなんてできたはず。

であれば、明智光秀にすべての責任を押し付けて、

清須会議で優位に立つことは全然シナリオとしては作りやすかったのではないか?

そう思います。

ただこれについては、歴史ミステリーですから、勝手な妄想ということで。

信長はどんな性格だった?

信長は、ルイスフロイスによると

長身、痩躯で、髭は少なく、声は甲高い。常に武技を好み粗野。酒をほとんど嗜まない

という特徴を持っていたとい伝えています。

信長と言えば

『泣かぬなら殺してしまえほととぎす』と称されいますね。

信長の逸話をまとめると

●比叡山延暦寺焼き討ち

軍事力を持ち、女に溺れ、宗教としての在り方から逸れた僧侶たちに対して、痛烈に批判をし、

そして、女性子ども問わず根絶やしにしたという話

●明智光秀の母を見殺し

明智光秀の母は、波多野家という家に人質となっていました。

信長は、そんな中、波多野家の人間を磔にしてしまいます。それをきっかけに、明智光秀の母は磔で処刑にあってしまうのです。

●徳川家康の息子に処刑を命じた

武田と内通したということを理由に、徳川家康の息子の信康に切腹を命じた

●日ノ本に王は2人いらない宣言

これは逸話ですが、天皇家と信長は一定の対立関係にありました。

そのため、日ノ本に王は2人いらないと言ったとか言わなかったとか

●髑髏(どくろ)の盃

浅井長政、浅井久政、朝倉義景の頭蓋骨を器にして、家臣に酒をふるまった。

人間として危ないですね。

 

優しい一面も

●障害があり、普通の生活ができない乞食に対して、

食べ物を与え、家を与えて、近隣の人たち声掛けをしてくれた

●秀吉が不倫をした際

秀吉の奥さんの味方をして、奥さん宛に手紙を書いた。

秀吉を叱咤した。

●ルイスフロイスを気遣う一面も

ポルトガルと日本との距離、フロイスの両親の年齢を聞き、気遣ったとか

 

楽しいことも大好き

●一日、相撲大会を開いた

●安土城をライトアップした

 

当時の大名は、家のことを第一に考えることもあり、

対外的には、かなりハッキリとした行動、残忍なことも数多く行っていた反面

人を楽しませたり、家臣への気遣いも時には忘れず

ただ仕事に対してはかなり厳しい一面をもっていたのではないでしょうか?

リーダーとして苦渋の決断がそこにはあったのではないか?

先ほども申した通り、

当時は、自分の家の存続が第一。

そんな中、家臣を統制する手立てとして、家を守る手立てとして

時には、やりたくないことも決断したのではないか?

というのが、私の考えです。

家臣から裏切りが出ないように、かつ最大限の成果を出せるようにしていく。

家臣の仕事に厳しく、時に優しく。

身分が低いものにもチャンスを与える。

今までにない革新的なやり方を貫く。

そういった在り方を信長は選択したのではないでしょうか。

争いの無い世の中

日本では、国内で戦争がなくなりました。

信長が目指していた争いのない世の中が作られたのではないでしょうか。

世界からも争いがなくなるといいですね。

次回は豊臣秀吉

豊臣秀吉はコチラから

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