人生の戦略会議皆さんはしていますか?
中学生、高校生くらいになると、自分の将来のことを真剣に考え始める年齢になります。
しかしながら、
夢もなければ、やりたいこともない
という学生は数多くいます。
私は、もっと人生の戦略会議を中学生や高校生にもやってほしいと考えています。
『勉強する意味』って何ですか?
お父さん、お母さんもこの質問を子どもからされたこと多いと思います。
私は、
『勉強する意味』なんて人それぞれ違うものだから、答えは1つではないと教えています。
仮に、
『医者になりたい!』と思っている子供が、勉強する意味なんて考えるでしょうか?勉強しなければ入れない。だからやる!で終わると思うんですよね。
大体、
『勉強する意味』を問う子供は、自分が将来何になりたいのか?どうなりたいのか?が決まっていない子たちなんです。
であるならば、
『勉強する意味』を考える前に、
『いろいろな価値観に触れるキッカケづくりをしてください』
学生時代って、何でも吸収できると思うんですよね。
だからこそ、自分のできるできないに合わせるのではなく、
自分のできないことを敢えてやってみることが大切だと思います。
一緒に戦略を考えて、勉強で圧倒的成果を生み出そう!
戦略というのは、
勉強法を考える & 習慣を変える
という2軸をやるべきです。
ですので、
子どもたちにまず問いたいと思います。
何でもできるとしたら、どうなりたい?
際限なく、言葉にしてみることが大切です。
思い描けたことは、形になるもの。
だから
テストで100点をとりたい!
といえば真剣に応援しますし、私も本気で向き合います。
一緒に、戦略を立ててみませんか?
生きるか死ぬかの戦国時代においては
軍議は、必要不可欠なものでした。
当時、実力のある戦国大名の多くは、優秀な軍師を召し抱えていました。
ちなみに私が好きな軍師は、黒田官兵衛と真田昌幸・幸村です。
好機を物にした黒田官兵衛
黒田官兵衛といえば、羽柴秀吉(豊臣)の軍師。
本能寺の変の直後、敵の毛利に信長の死が知れ渡る前に和睦交渉を進め、
俗にいう『中国大返し』の作ったのがこの黒田官兵衛
信長が死んだ知らせを聞いた秀吉はとても取り乱します。
しかし、黒田官兵衛はこれを秀吉が天下人になれる好機ととらえ、誰よりも早く明智光秀を討つことを決断しました。
結果として秀吉は、信長死後
織田家の中における主導権を得ることなり、1590年(信長死後僅か8年)で天下統一を果たすこととなります。
意外と知られていない西の関ヶ原
黒田官兵衛でもう1つ有名なことは、
1600年 徳川家康と石田三成との間で関ヶ原の戦いが起こります。
官兵衛の息子、長政は家康方につき武功を挙げました。
しかし、黒田官兵衛はどちら味方もせず、せっせと九州を平定していたのです。
官兵衛の狙いは、天下分け目の関ヶ原長引くと予想し
九州を平定後、数十万の兵を率いて家康を討ち、自らが天下取りをするという作戦でした。
黒田官兵衛の大誤算
官兵衛の大誤算は、長引くと思っていた関ヶ原の戦いが、
「わずか1日で終わってしまったこと」
でした。
家康から停戦命令が下され、官兵衛の思惑は泡と消えます。
官兵衛がいなければ秀吉は有名になっていない。
秀吉が天下統一ができたのは、
黒田官兵衛という存在があったからです。また官兵衛を召し抱える前も、竹中半兵衛という優秀な軍師を召し抱えていたことから
秀吉の能力は人を味方につける能力に長けていたということでしょうか。
優秀な戦略を立てることができる人間を配置していたことにより、秀吉は天下を取ることができました。
官兵衛は1年間地下牢に幽閉されていた
黒田官兵衛は、智略家でありそして大胆であり冷静沈着。
俯瞰して物事をとらえることができる人間でした。
そして何より秀吉に対する『忠誠心』の塊でした。
ある時、黒田官兵衛は荒木村重という織田家を裏切った武将に捕まり、1年間地下牢に幽閉されてしまいます。
想像を絶する環境下、救い出されたその時には、自分で歩けないほどでした。
足が悪くなってしまったキッカケはこれが原因です。
普通であれば、裏切ってもおかしくない環境下、しかし黒田官兵衛は1年間もの間、秀吉への忠誠心を貫きます。
織田信長は、帰ってこない黒田官兵衛を裏切ったと勘違いし、
官兵衛の息子、松寿丸(のちの長政)を殺すように指示をだします。
しかし、ここで官兵衛の息子を内緒で隠したのが、病床にいた竹中半兵衛でした。
竹中半兵衛は、官兵衛が幽閉から解かれる4か月前に死去しました。
信長は、竹中半兵衛が松寿丸を隠していたことを知り、
『半兵衛め!死してなお、この信長を手玉にとったな!』と半兵衛を称賛し、
官兵衛にのちに謝罪します。
徳川の大軍勢!10倍の兵と立ち向かう真田の強さ
関ヶ原の戦いの最中、
上田合戦という戦いが、現在の長野県で行われていました。
第2次上田合戦では、
徳川軍38000 VS 真田軍3000
という戦いでした。
これだけ見ると、絶対に勝てないじゃん!と思われるこの戦い。
この10倍もの兵力差を打ち負かし、勝利を収めることとなります。
徳川が野戦で負けたのは、武田信玄と真田家だけ
徳川家康はとにかく野戦が強かった。
家康が野戦で敗れた相手は、当時最強だった武田信玄とこの真田家だけといわれています。
関ヶ原の戦いで勝った家康も、真田家を恐れ
戦いの後、高野山に蟄居させられます。息子の幸村も一緒です。
なぜ、負けたこの2人が殺されなかったかというと、
真田家は家を残すために
昌幸と幸村(次男):豊臣軍
信之(長男):徳川軍
に分けていました。どちらかが負けても助命嘆願をするという狙いでした。
助命したことが、後に家康を苦しめる。
大阪冬の陣、大坂夏の陣という出来事は知っていますか?
これは、
徳川家康が豊臣家を滅亡させた戦いです。
しかし、
この時家康はとても苦労をさせられることになります。
それは蟄居していた、真田幸村が豊臣側の軍師になったことです。
真田丸という要塞を作り、徳川軍を翻弄
大阪城内に、真田丸という要塞を築いたことにより、
家康は、なかなか中に攻め込むことができなくなりました。
結果として、大坂冬の陣は引き分けという形で終了することになります。
堀を埋められ、負け勝負の大坂夏の陣
冬の陣の引き分けの条件として、
大阪城の堀が埋められることとなりました。
堀が埋められた大阪城は、四方八方から攻めることのできる丸腰状態となってしまいます。
多勢に無勢、豊臣軍は虫の息。
真田幸村、徳川本陣に突撃
わずかな兵を率いて、
徳川15000の本陣に向かって突撃をしていきました。
まさに死ぬ覚悟。
不意を突かれた徳川軍は総崩れ、死を覚悟します。
何とか戦況を持ち直した家康は勝つことができたものの最後まで真田家に苦しめられることとなりました。
劣勢な時、上手くいかない時こそチャンス
皆さんも何か物事を始めるときは、
失敗が必ず起こります。
ある記事で、歌手のGACKTが書いていた図に共感できました。
すぐにあきらめてしまう人は、左の図を連想し行動に移せない=成果を出せない。
成果を出す人は、右の図のように失敗のその先に成功があるという考え方をしています。
私も人生の中で、成功した経験より失敗した経験の方が多いです。
新しいことを始めると失敗が付き物です。
テストで100点を取ると目標を立てても、その間でうまくいかないことが一杯起こります。
でも、その失敗が次の成長を教えてくれる!
実は、成功体験よりも失敗体験の方が成長につながりやすいと私は考えます。
というよりは、
『失敗』=『成功の前段階』
と思っている人ほど強いということでしょうか。
結局は成功体験が人を成長させるということと変わらなくなるのですが、
失敗というのは、教訓でありその結果を嘆いたとしても結果は覆らないということです。
であるなら、
その失敗から成功につなげるために何ができるのか?を学んだ方が利口ということです。
かわいい子には旅をさせよ
この言葉の真髄は、
『いろいろな経験をさせ、失敗や成功を体験することよって、人としての幅を広げなさい』
ということだと思います。
親が子どもに言ったことはすぐには、反映されないもの
昔、親に言われていたことって今でも覚えていますよね?
私も10年前、大きな失敗をしたときに
『 お前には、弱気な虫がついている! 』と叱責を食らったことがあります。
人生は長いので良いときも悪い時もあります。悪いときにいかに踏ん張るかを覚えなさいという意です。
私にとっては、この時の出来事は大きな失敗体験です。でも、今となれば良き教訓となっています。
最終的に応援してくれた父にはとても感謝しています。
10年経って、深みが増すこともあるということ。
子どもは大人の準備期間
大人になる前の準備期間をいかに過ごすことができるのか?
まずは、お子様と人生の戦略会議をしてみませんか?
親子でやると喧嘩になるご家庭は、私がやります!
ぜひ1度トライアングルを訪ねてみませんか?