船堀の塾:わかりやすい日本史②

こんにちは!

本日は、

わかりやすい日本史②

第2弾です!

豊臣秀吉についてやっていこう!

豊臣秀吉は、

1537年 尾張(愛知県)に生まれました。

簡単に年表を整理します!

1537年 尾張に生まれる

1554年 信長に仕え始める

1561年 おね(高台院)と結婚

1562年 墨俣一夜城の構築(逸話)

1570年 金ヶ崎の退き口

1572年 羽柴に改姓

1573年 小谷城の戦い、長浜城築上(一国一城の主に)

1578年 上月城の戦い

1582年 中国大返し、山崎の合戦、清洲会議

1583年 賤ヶ岳の戦い、大阪城建立

1584年 小牧長久手の戦い

1585年 関白になる

1586年 豊臣の姓に

1587年 バテレン追放令

1588年 刀狩令

1590年 天下統一

1592年 1597年 朝鮮出兵

1598年 死去

豊臣秀吉 結論から言えば何が凄い?

秀吉は元々、当時で言えば下層民

つまり農民の子でした。

農民でありながら、1554年に武士の信長に仕えると

小者→足軽組頭とみるみる内に出世を果たし、

1573年に一国一城の主に大出世を果たします。

そして、1582年信長死後、

天皇から、関白、太政大臣の官位を受けると、国の中で一番の権力を得ることになります。

今の感覚で言えば、

無一文の男が、国家で一番のお金持ち

平社員が、トップ大手企業の社長に

なるようなものです。

当時は、身分や家柄が重要視された時代です。

いかに信長が能力重視だったとはいえ、仕えてからここまでの大出世をするのは、かなり現実的ではなくらい凄いことなのです。

秀吉は日本史史上最高の大出世を果たしていると言っても過言ではありません。

信長のわらじを温める(逸話)

信長に雇われ始めた小者時代のことです。

真冬の雪の降る日

外で信長が出てくるのを待っていた秀吉は、信長のわらじを懐で温めます。

信長が出てくると

『外が寒かったので、信長様のお履き物を温めておりました。』といいます。

それを聞いた信長は、喜んだことでしょう。

ただ、これは逸話で本当であったかはわかりませんが、

秀吉=人の心を読み取るのが上手

というところから、出てきたお話でしょう。

おね(高台院)の先見の明

結婚当時、秀吉はまだ足軽。

母親は猛反対。

猛反対も無理はありません。当時は結婚というのは、家と家とを繋ぐ政略結婚がほとんど。

地位の高い家に娘が嫁げば、自分の家も家柄が良くなるというものです。

おね(高台院)は、まだ14歳。秀吉という、どこの馬の骨かわからない男性にお嫁に出すことを親としてとても心配に思ったことでしょう。

当時では珍しい、恋愛結婚だったようです。

結婚したものの、極貧生活。

足軽の秀吉では、藁と薄縁を敷いた家に住むのがやっとだったようです。

そんな秀吉でも可能性を感じてか、嫁いだおね(高台院)には先見の明があったということでしょうか。

夫のために献身的につとめます。

墨俣一夜城(逸話)

当時、

織田家(尾張:愛知県)と斎藤家(美濃:岐阜県)は、対立状態にありました。

織田家は、敵との国境沿いに城を築いて

そこを拠点に攻め入ることを考えます。

しかし、いろいろな家臣が築城にチャレンジするも相手の攻撃に合い失敗を繰り返します。

城を作るのには時間がかかります。その間に攻撃を受けるわけです。

そこで、

秀吉はこれをチャンスと思い、

墨俣に一夜にして城を建てると豪語します。

城を一夜にして建てるなんて、誰もが無理と秀吉をバカにしたことでしょう。

ここで、秀吉は頭を使います。

敵の目前で、城を築いていてはバレて攻撃を食らう。

したがって、上流である程度資材を組み立てた上で、下流に向かって流します。

ある程度組み立てたものを使い、城を築くので時間がかかりません。

一夜城というのは、今でいうプレハブ工法で成し遂げたものかと思われます。

誰もがやれないと思われることを成し遂げる秀吉も信長は重宝したのではないでしょうか。

金ヶ崎の退き口

1570年 織田信長 人生最大の危機、金ヶ崎の退き口という出来事が起こります。

同盟国の浅井長政に裏切られた信長は、

浅井長政と朝倉義景に挟み撃ちに合います。

そこで、秀吉は

しんがりを務めるので、信長様はお逃げください』と信長の盾になることを宣言します。

しんがりを務めるということ=命懸けで盾になる

ということでした。

無事に、信長は逃げることができ、

秀吉は褒美をもらえると期待しましたが、大した褒美が出なかったと言われています。

しかしながら、

その後、長浜城の一国一城の主にしてもらったことを考えると、一連の行動がこの大名になることに繋がった考えても良いかと思われます。

本能寺の変と『人生をかけた天王山』

1582年 本能寺の変が起こります。

織田信長が明智光秀の謀反に合います。

当時、明智光秀以外の家臣は、

中国地方:羽柴秀吉

四国地方:丹羽長秀

北陸地方:柴田勝家

関東地方:滝川一益

と地方に散り散りだったことから、信長の周りは手薄でした。

信長はそんな最中、悲劇を向かえることになります。

本能寺の変の一報を聞いた秀吉はとても動揺したことでしょう。

しかし、その一報を聞いた秀吉の家臣『黒田官兵衛』は、

殿、道が拓けましたな!

と言ったと言われています。

信長が死んだ今、明智光秀を倒した人がその後の権力を握れると踏んだのでしょう。

戦っていた毛利との和議を内緒で進めると、全軍一気に引き上げます。

7日間で200キロを走破した』と言われています。

鎧を来て、1日30キロ当時の人は化け物ですね笑

この中国大返しは、

かなり用意周到だったといいます。

即日、情報を仕入れ、直ぐ様撤退。

中々できることではありません。

その後、本能寺の変 秀吉黒幕説を唱えられたのもこういう用意周到がおかしいという所からくるものかと思われます。

200キロの道を戻った秀吉は

山崎の戦いで明智光秀を倒します。

よく野球などで天王山という言葉がありますが、その言葉ができたのはこの時と言われています。

山崎の戦い=その後の情勢が決まる天王山

ということですね。

清洲会議

信長死後、誰が家督を継ぐのか清洲会議が開かれます。

なぜかというと、

本能寺の変の際、信長の長男の信忠が死んでしまったためです。

そのため、対立の構造が起こります。

羽柴秀吉VS柴田勝家

です。

羽柴秀吉は、次男の織田信雄を。

柴田勝家は、三男の織田信孝を。

次の跡継ぎとした援助します。

ここで、実権を握ればその後の織田家の筆頭になれると踏んだ両名は、対立します。

当時は、織田家筆頭は柴田勝家。情勢は柴田に傾きかけます。

そこで、秀吉はまた頭を使います。

織田信長→信忠→三法師

つまり、信長の孫を跡継ぎにするという案を出します。

清洲会議に参加していた

丹羽長秀、池田恒興も秀吉に賛同します。

柴田勝家は孤立します。

その後、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いにて秀吉に敗れます。

関白そして豊臣の姓に。

実権を握った秀吉は更に出世を果たします。

天皇から関白の身分を受けると、その後自分の身内を関白とし、自分はその上の太閤という身分を作り、日本国内の権力を握ることになります。

名前も羽柴から豊臣となり、

豊臣秀吉となった秀吉は一気に天下統一まで突き進むこととなります。

朝鮮出兵そして死去

日本国内を制覇した秀吉は、

朝鮮に出兵を行います。

これは信長時代からの方針で、信長の意思を継いだとも言えます。

1592年 文禄の役では、

快進撃を繰り返すも、後に和議を結び撤退

1597年 慶長の役では、

前回の役に比べ防備が万全。大苦戦します。

その最中、秀吉の訃報が出たことで、

朝鮮から撤退することとなります。

秀吉は家臣に恵まれた!

秀吉の家臣はとても優秀だったと言えます。

豊臣秀長:実の弟

竹中半兵衛:軍師

黒田官兵衛:竹中半兵衛後の軍師

蜂須賀小六、石田三成、加藤清正、小西行長、福島正則など秀吉を影で支えた人物は有名。

特に、黒田官兵衛の存在無くして天下統一は無かったとも言われています。

それだけ人を惹き付ける魅力があったのも、秀吉の特徴とも言えます。

秀吉の大誤算?!

秀吉とおね(高台院)との間には子どもがいません。

それゆえ、

秀吉は信長死後、

側室に淀殿を向かい入れ、子どもができます。

ちなみに、淀殿は

浅井長政と信長の妹のお市の方

との娘です。

織田家の血を入れることで権威付けがしたかった背景と、淀殿(茶々)を秀吉が溺愛していたためと思われます。

嫁いだのは、秀吉51歳 淀殿19歳の時です。

歳の差32歳笑

やばいですね笑 今じゃ、社会的に受け入れられないもかもしれませんが、当時では権力のあるところに嫁ぐのに歳の差なんて関係ありません。

第一子は、幼くして死去。

やっと出来た子、豊臣秀頼は幼くして秀吉と死ぬこととなったために、権力を担うことができませんでした。

秀吉にとって跡取りが早めにできなかったことが後々に響くことになったんですね。

秀吉死後の豊臣家

1600年 関ヶ原の戦い

この戦いは、

徳川家康VS石田三成(豊臣方)

で戦った天下分け目の戦いです。

ここで勝利した徳川家康が、1603年に幕府を作ることになります。

その後、

1614年 大阪冬の陣

1615年 大阪夏の陣

にて、豊臣家は滅亡させられます。

長生き、跡取りの鍵

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の中で一番長く生きたのが徳川家康

やはり長生きが成功の鍵だったんですね。

また豊臣秀吉に跡取りがいた場合、関ヶ原の戦いには発展していないと思われるため、徳川家康の天下は無かったか?それとも遅れていたと思われます。

秀吉から見る成功の秘訣

秀吉の成功要因

① 人の懐に入るのが上手だった

② 有言実行、バイタリティーが高かった

という秀吉の性格

③ 上司に恵まれた

④ 部下に恵まれた

という環境的な要素と考えられます。

 

秀吉は元々農民の子であることから、保身がそこまでなかったのではないでしょうか?

また人よりも動かないと、目立たないと生き残ってはいけないというバイタリティーや

相手の懐に入り込める、よいしょ体質が上手だったことが要因と考えられます。

そして性格のみならず上司や部下に恵まれたという環境的な要素が大きかったのではないでしょうか。

まあこれだけの大出世ですから、史実にはないえげつないことも数多くしてきたと思いますが笑

何れにしても豊臣秀吉は凄い人間だと思います。

過去の投稿はコチラから

●織田信長とはこんな人物

https://triangle-tis-school.com/2020/03/02/%e8%88%b9%e5%a0%80%e3%81%ae%e5%a1%be%ef%bc%9a%e3%82%8f%e3%81%8b%e3%82%8a%e3%82%84%e3%81%99%e3%81%84%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%8f%b2%e2%91%a0/